猟奇的殺人事件から学びを得よう

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どうも、renarena.netの管理人のRenaと申します。

今回は世間を震撼させた数々の猟奇的殺人事件から学びを得ようという試みです。

皆さんは秋葉原通り魔事件、附属池田小事件、京都アニメーション放火殺人事件、西鉄バスジャック事件、小田急ジョーカー事件、この中で何個かは聞きなじみのある事件があると思いますが、これらに共通するあるものをご存知でしょうか?

答えは「自分の人生の不遇を社会のシステムと他者の犠牲によって精算しようとする」といった点にあります。

彼らの犯行前の様子が新聞などで語られている場面を多く見ますが、何故彼らはこのような事件を起こすまでに追い詰められたのでしょうか?

一言で言えば、「社会との接続が断たれ、自尊心が完全に崩壊した状態で、その苦痛の出口を『破壊』以外に見つけられなくなったから」と言えます。

専門的な分析や司法記録で見られる「追い詰められる過程」には、いくつかの構造的な要因が複雑に絡み合っています。

  1. 「自己責任論」による精神的追いつめ
    現代社会では、何らかの困難(貧困、失業、病気など)に直面した際、それを「努力不足」や「自己の責任」として内面化させる圧力が強く働きます。

加害者たちの多くは、現実社会で適応できず失敗を繰り返す中で、周囲からの理解を得られず、「自分には価値がない」「自分は社会のお荷物だ」という強烈な自己否定に支配されます。
この自己否定が長期間続くと、「自分を傷つける世界そのものが悪い」という認知の歪み(被害者意識の肥大化)へと反転し、自分を守るための防衛反応として「攻撃」を選択するようになります。

  1. 「帰属意識」の喪失とコミュニティの不在
    人間は、職場、家族、趣味の集まりなど、複数のコミュニティに所属することで精神的な安定を保ちます。しかし、事件を起こした人々の多くは、これらの接続先を一つずつ失い、最終的に孤立無援の状態にありました。

「居場所」の消滅: 社会に必要とされているという実感が持てないと、人は社会的な規範を守る意義を見失います。

「帰属意識」の喪失によって生じる「孤立による妄想の加速」
相談相手が誰もおらず、自分の考えを修正・客観視してくれる他者がいない環境下では、一度抱いた不満や憎悪は、内側で増幅されるだけで誰にもブレーキをかけられません。

  1. 社会的排除と「屈辱感」
    多くの加害者が抱えていたのは、単なる「貧しさ」ではなく、社会から軽んじられている、あるいは自分だけが排除されているという「屈辱感」です。

「負け組」や「社会の底辺」というレッテルを貼られたと感じた時、彼らはその屈辱を晴らすために、世間が注目するような大きな事件を起こすことで、「自分の力を社会に知らしめたい」「自分が味わった苦痛を他者にも味合わせたい」という衝動に駆られます。これは心理学的に「尊厳回復の試み」という歪んだ動機として分析されます。

  1. ネット空間という「共鳴箱」の存在
    それは今我々が生きる現代の特有の要因として、インターネットの存在があります。

現実で居場所のない彼らにとって、ネットは唯一の交流の場ですが、そこには「社会に不満を持つ者同士」が孤立を深め合う場所が存在します。

匿名掲示板やSNSで自分と同じような絶望を抱える他者を見つけ、事件を称賛したり、犯罪を「社会に対する反逆の英雄行為」のように語る言説に触れることで、「自分も同じことをすれば報われる(認められる)」という危険な認知の強化が行われます。

  1. 支援システムの「狭間」
    多くの加害者は、犯行前に福祉や医療機関にアクセスしようとした形跡がありますが、その多くが制度の網の目から漏れています。

彼らにとって犯行は、単なる衝動的な暴力ではなく、「それまでの人生で積み重なった失敗、挫折、屈辱に対する、人生最後の精算」という物語として構築されています。
彼らが追い詰められた本質的な理由は、「自分という人間が社会の中でどう生きていくか」という物語を、前向きに再構築するための支援や対話の機会を、社会のシステムの中で得られなかったことにあると言えます。

またこの記事を書いている私も、自分で言うのもおこがましいですが、多くの挫折を経験し、精神的に追い詰められ、何度も自殺未遂や自傷行為を繰り返し、強制的に医療機関と関わる機会をもたされましたが、結局いつも思うのが「お前らには自分の何がわかるんだ?」というものです。

また当たり前の話ですが医療機関の方々は精神的に弱っている人と接することでお金を稼いでおります。
儲けることが別に悪いと言った話ではないですが、まぁ、なんか相談する気が失せますよね。

そもそも本当に精神的に追い詰められた人間を支援する受け皿など存在しません。
制度や組織は、維持のために個人を部品として扱うだけで、個人の魂の救済までは目的としておらず、どれほど深く誰かと関わろうとしても、結局は「個」と「個」であり、決定的な孤独を埋めることは不可能で、どんな拠り所も、環境の変化や時間の経過によって、いとも簡単に崩壊し得るわけです。

まあこんなことを書いていても努力が足りないだの思う方は一定数いるとは思いますが、そもそも努力して幸せがつかめることは確定していますかね?

馬鹿と決別し、過去に己を虐げた公立中学のあっくん達が土方でよいしょよいしょする間、ひたすらペンを動かして、ゼネコンやらに入ってあっくん達を奴隷のようにこき使って労災で殺す夢を私は持っていました。

しかしそんな歪んだ思想を持って叶うかも分からない夢を追って勉強してる間に、彼らは地元の友達とつるんで彼女作って高校生のうちにセックスを経験して若いうちに子供を作り幸せな家庭を築いて土手でバーベキューをしています。

建前はそりゃ全員平等でしょうけど、内心全員が弱者なんてその場でくたばればいいとでも思ってます。

人が存在し、この地球上で暮らす以上、決して消えない問題であり、嫌なら自殺が手っ取り早いと思ってます。
こんな記事書いてる私も死に損ねて惰性で暮らしてるようなものですが、近いうちにけじめをつけようと一応先のことも考えています。

いつかボタン1つで死ねる社会が来ればもっと幸せになるんじゃないですかね~。
ということで今回の記事は終わりです。

ご覧いただきありがとうございました。